2019年9月28日土曜日

日本はとても幸運なのではないか。

「記憶にございません」という映画を見に行きました。映画自体はまずまずおもしろ、くリラックスして週末の午後を過ごすことができました。昔は映画を難しく考えていた時もありましたが基本的に娯楽ですから理屈抜きに楽しみたいです。

先週は入館まで時間があったので映画館内を見まわしてみるとチケット販売がすべて自動販売機に代わっていました。チケットはインターネットで購入で購入していますから何時からこのようになったのかは正確にはわからないのですが半年前はカウンターにお姉さんたちがいたような気がします。

このような省力化はあっという間に広がっているという印象です。近所のスーパーマーケットの支払いは全て機械相手になりました。我が家の近所の5つのスーパーマーケットは全て同じような機械を導入しています。商品のバーコードの読み込みはレジ担当の人が行い支払いは指定された機械で行います。レジ担当一人に支払機が二つあるので単純計算すると効率倍です。

近所のリソナ銀行も同じような機械が導入されていました。郵便為替の支払いを受けに行ったのですが、機械の横に女性が一人立っていて為替を渡すとササっと処理をしてお金がサッと機械から出てくるのです。この女性はずっと立ったまま勤務されていました。

日本はこういう効率化は一度始まると早いです。さらに労働力不足ということもあり、こういう支払い機械の導入が加速しているのでしょう。

今AIが話題になっていますが、こういったことは話題になっているうちはあまり大きな変化はないのです。しかし、次第に当たり前になっていって話題になることもなくなります。嘗てのオフィスオートメーションもインターネット革命もそうでした。これらは大きく話題になっていたころはまだ大して機能していませんでしたが結果として社会を大きく変えてきました。日本はこういうことは早いのです。

AIも間違いなく今人間が行っている仕事の一定量は奪うでしょう。それは100年に一度ともいわれ大きな変化です。この大きな転換期にマクロ的に労働力が不足しAI導入のモチベーションが高くその障害が低い日本は幸運なのではないでしょうか。

日本のAI技術は遅れているといっている方たちもいますが、実際にそれを使うことが可能な日本が製品化の技術においては先行するという可能性は十分あるでしょう。

基本的に単一民族で教育レベルが高いことも先端技術導入のアドバンテージです。みな理解が早い。それに加えて、島国で他国の車両が入り込んでくる可能性がないため自動運転の実施にも適しているといわれています。事故があってももみけせる中国にはかないませんが、今最もホットな産業分野の一つである自動運転においても日本にはアドバンテージがあるのです。

僕はこれから隠居しようかという身ですが、日本の将来は楽観視しています。この日記に書いたことに加えて、今の若者たちは僕たちの世代よりもしっかりしていますよ。きっと日本は今よりもよくなると信じています。

2019年9月23日月曜日

実質3週連続での三連休、暇で辛い。

今日朝起きて、やることが何もないと思った。暇である。先々週の月曜日は台風15号による電車網の乱れで会社を休んだから実質的に3連続3連休である。やることがない。台風による大雨が予想されていたから事前の予定は入れにくい状況ではあったが、それでも暇である。

仕事にそれなりの責任があったころは週末は休息日であった。休むということ自体に大きな意味があった。しかし今は会社に出社しても大したことはやっていない。精神的に疲れることはない。一時間の通勤はそれなりに肉体的負担ではあるが出社後に会社で休んでいるのだ。仕事の疲れなどない。だから仕事がない日に休息を取る必要はない。

朝起きて今日は特にやることがないというのは辛いものだ。退職後にはそれが限りなく続くと思うと正直ぞっとする。何か考えねばならない。だからこのブログを立ち上げたのであった。もっと建設的なことを考えねば。

2019年9月21日土曜日

雇用延長と存在の耐えられない軽さ。

僕は一年半前に60歳になり、退職金を受け取ったうえで再雇用されているサラリーマンです。給料は下がりましたが世で言われているほどではなく、家族と暮らしていくには十分です。この点に関しては会社に感謝しています。

しかし、やはり、自分に対する期待値というのは、当たり前ではありますが、それ以前のものとは違います。この一年半、絶えず周囲の自分に対する期待値に合わせて自分の仕事のレベルを下げてきました。やっと最近になって自分の仕事のやりかたが周囲の期待値とあってきたかなと思います。それはもうほとんど仕事をしない状態に近いです。正直、毎日2、3時間も仕事はしていません。それで十分。仕事を退職する前というのはこんな感じなんでしょうか。

僕は一度リストラされています。40代の前半に本社の管理職から地方の研究所に転勤させられたことがあるのです。この際に役職と給料が下げられることはありませんでしたが、仕事は派遣社員ですら躊躇してしまうようなものでした。それでも普段は家族を養うためと割り切っていたので自分の感情を抑えて勤務していました。しかし、かつて仕事を一緒にやっていた方たちが研究所に出張してくる際は非常につらかったです。存在の、というか、社内での自分の立場の耐えられない軽さに苦しみました。

そのような状態から脱するため、わずかでもチャンスがあればその機会を使って自分をアピールし、いくつかの幸運もあり研究所でまた管理職に復帰することはできました。そして、そこで役職を退任し本社に戻り今の部署で働いています。

そのリストラ体験に比べればいまの仕事のダウングレードは辛くはないです。ただ、自分の存在がどんどん薄くなっていくことに寂しさを感じます、自分はまだ仕事はできますから。しかし、それに抗うことはもうできません。これはかつてのリストラとは違う。引き際です。周囲に迷惑をかけることなく、静かにフェイドアウトしなければなりません。

2019年9月16日月曜日

隠居の畔で

僕は61になるサラリーマンです。おそらく、63の誕生日を持って退職ということになると思います。それにあわせて退職後のことを考えていますがインターネットなどで情報があふれている割にはあまり役に立つものはなく考えれば考えるほどよく分からなくなってくるのでこのブログにその日々の気持ちを記録し整理していこうと思っています。

法律では65歳までの雇用が義務付けられているようですが、僕の勤める会社の規定では実質的に年金の暫定受給期間が始まる年齢の誕生日前日が雇用延長のマックスになっています。コンプライアンスにはうるさい会社なので法律的にも問題がない規定だと思われます。ということで僕の場合は残りのサラリーマン人生はあと一年半強なのです。

自分の退職後の生活はどいうなるんだろう。第二の人生などというのは大仰すぎる。そんなに力まなくたってよいのです。人生一回ですから、第一も第二もないでしょう。また、退職をもってそれまでの人生がすべてゼロになってまったく新しい人生が始まるわけでもないのです。そんなに頑張らなくてもよいと思う。仕事をやめようが続けようが自分は連続した一回きりの人生を生き続けている。

また余生というのも抵抗があります。なんというか大きなことを成し遂げた人がその後の人生をゆっくり生きるというイメージかな。ゆっくり生きることには共感できるのですが、僕は別段何も成し遂げていないから余生などという大それた言い方はできない。

で、隠居です。しっくりきます。力みも感じないし偉そうでもない。光り輝いてはいないけれど、お金がなくてもそれなりに楽しそうです。

だから、自分の退職後は隠居生活。それでブログのタイトルを「隠居の畔で」としてみた。なんとなく気にいってます。あと一年半、僕の隠居についていろいろと考えてみることにしました。

日本の不幸、新コロナも政権批判の道具にされてしまう。

先週安倍首相が政府の新コロナウイルス対策をテレビを通じて国民に説明しました。僕の感想は可もなく不可もなくってところでした。もう少し早くこのような機械を持つべきではなかったかと思いますが準備が整わなかったのかもしれません。 そして、やはりというか、さっそく野党は批判のコメントを...