2019年12月5日木曜日

若者が文章を書けないのは国語教育の問題では?

本日の朝刊の一面は、文章を作れぬ若者、でした。OECDの学力調査で日本の若者の読解力が公に示されてしまいました。

これについての報道では、その原因をLINEなどのスマホアプリに求めているものが多いようです。例にもれず、教師の時間が足りないというものもありました。
僕は一番の問題は日本の母国語教育だと思います。今回のOECD調査はそれを正す機会になってくれればと思います。

英語教育については、よく会話力低さが指摘されますよね。中高6年間習ったって英語が話せるようにならない、だから日本の英語教育は間違っている、という批判はよく聞きます。(僕はこの批判は全く当たらないと思っている一人ですが、これについてはまた機会があれば日記に残しておきたいと思います。今日は国語です。)

これと同じ論法を国語の教育に当てはめて論じる報道は今まで見たことがありません。しかし現状は英語教育とどこも変わらない。小中高12年間国語教育を受けているのに、「読み書きはもはや特殊技能」と嘆く教育関係者もいるそうです。

LINEも悪影響を与えているかもしれませんが、そもそも、教育の現場で、書く練習が全く足りない。その少ない書く練習も、取り組み方がおかしいとおもう。これを僕たちは実際に体験してきたし、息子の時代の国語教育も同様だった。入試では書く力はほとんど問われないですから。

 国語が母国語の読み書きを教える教科なのであれば、最低半分は書くために時間に割くべきです。

そして文章も、感想文や作文ではなく、仕事文を書く練習を徹底的に行うべきです。状況分析を書く練習、報告書を書く練習、提案書を書く練習、などです。

学校の作文では、「今日は朝起きて、歯を磨き、お母さんの作ってくれたサンドイッチを食べてから、クラスメートと一緒に遠足に行きました」、といった作文を書くと先生に怒られた。これは作文じゃないって。自分の気持ち、考えを書きなさいって。読書感想文も、要約が多いと同じ理由で怒られた。

こういった作文指導で文章を書けなくなった人はたくさんいると思う。遠足は楽しくなかったけど、事実の記録だけにしたり本心を書くとよい点数はもらえない。読書感想文も同じ。

しかし、今の時代、学校の先生が期待するような作文を書く機会は実生活ではほとんどありません。

ほとんどの場合、事実や分析を論理的整合性保ちつつ正確に伝えることが求められます。自分の感想や気持ちなんて邪魔です。提案書の練習なら、それに適した課題を与え書かせるべきなのです。そしてその際には、先生はその文章のテンプレートのようなものを事前に教えておくべきです。そうすれば書くのが楽になる。楽であればどんどん書けます。そうすれば文章もうまくなる。

実社会では、自分の感情を書かねばならぬ機会など稀です。必要なのは仕事文です。でも学校では教えないですから、必要に迫られると、みんな自分の文章力のなさに愕然とする。それは文章が下手なのではなく、書き方のルールと文章の構成がわからないだけです。仕事文を教えてもらってこなかったから苦労する。

今はインターネットとe-mailの時代です。これらは主に文章で構築されている世界です。だから、かつてないほど文章力が重要な時代なのです。その時代にこの能力が不足している若者を大量に生み出しているのは国家的な損失ですよ。速やかに国語教育は仕事文的な文章作成の比重を高めるべきだと思う。

しかし、現役ほぼ引退の61歳の自分が日記に自分の意見を書いても何にもならない。文部省はホームページで一般市民の意見も受け付けているので、本名を名乗り、メールアドレスも記して、この日記の要約を書き込んでおきました。何もしないよりはましかなと思いってます。

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